これで真のリーダーへ!すごいリーダー本当に脳が違うのか?!

・本のタイトル:すごいリーダー本当に脳が違うのか?!

・本の著者名:苫米地英人

・本の出版社名:株式会社三才ブックス

・発行日:2009年6月

 

真のリーダーとはどの様な人物像や行動、リーダーに必須な能力とは何か?真のリーダーになるにはどうやったなれるのか?に関して脳科学と筆者が提唱する知見の両面からアプローチした1冊。

ずばりリーダーとはコントロールできる臨場感空間に、人々を引き寄せさえすればリーダーとなれると言います。また支配的なリーダーもいるが、支配的なリーダーは一次的でしかなく本当のリーダーとはことなる。支配するのではなく、人々に満遍なく幸せと安らぎをもたらす存在。戦争を放棄し経済発展も上位に位置する日本こそ世界のリーダーを排出するべきだと言います。その為、には国民一人一人の目を養うことが必要とも。この本には要約にはない、リーダーになるためのテクニックやトレーニング方法にまで言及されています。リーダーを目指す人、リーダーか見極めたい人にお薦めの一冊です



目次

  1. リーダーの条件
  2. 人を引き寄せる魅力
  3. 重要なのはリアライズドバーチャリティ
  4. 人の数だけ世界は存在する
  5. 現実をすり替えることは可能なのか?
  6. 人の世界はどうとでも変えられる
  7. 自然と他人を引き寄せる人物になる
  8. 大切なのは感情を共有すること
  9. 恐怖は一過性の効果でしかない
  10. 自ら進んで楽しまなければならない
  11. 相手が圧倒される程の雰囲気とは
  12. デ・ニーロも学んだ演劇理論で感情を伝達
  13. ナンバー1からプラーナをもらう
  14. 脳科学的にみる「責任」について
  15. リーダーが責任を取る意味
  16. 今よりも上のリーダーを目指す

 

 

要約

【すごいリーダーの条件】

◆リーダーの条件

様々なリーダーに関する書物はありますが、本書ではリーダーの最低条件として自分が得意としている分野ややりたいと思っていないと勤まらないとしています。

同時に必要な要素は、情報収集能力、同調能力、責任能力の3つ。これらの要素もとにゴールをリアルに認識し、関係者と強く共有し、人を引き付けてこそリーダーと言える。




◆人を引き寄せる魅力

関係者はリーダーが下した決断を自らした判断と解釈し受け入れて実行します。

決して、強要されての判断ではないところが会社で行われている指示とは異なるところですね。この判断は、うまくいっている時は良いのですが、当然悪い時もあります。

そのうまくい方なかった時こそリーダーの本質が問われるのです。



【すごいリーダーになるための心の準備】

◆重要なのはリアライズドバーチャリティ

他人の心(=脳)の中にある「臨場感空間」をコントロールすることが必須です。

臨場感を持った世界が、リアルになるため、その人が持つ臨場感空間をコントロール出来れば、その人に「自分がコントロールされている」とは気付かせずに、その人の行動や考えが、コントロールする人の意のままに動くことに繋がる。たとえその世界が仮想空間であってもリアルだと認識し、実際にリアルになってしまいます。


◆人の数だけ世界は存在する

同じ景色を見ても同じモノを見ても、見ている人たちにとってはすべて完全に同じではなく物理的現実現実世界は、世界の人の数だけあります。つまり物理的現実が少なくとも、世界の人口の数だけ存在すると述べています。

 

◆現実をすり替えることは可能なのか?

人間はストレスになる外部の変化に対し、常に安定した恒常的常態に保とうとするホメオスタシスという仕組みを持っている。ホメオスタシスは、生物を存続させるために外界の温度が上がれば体温を下げるなど協調しながら常に自分の情報を新しいものに更新します。このホメオスタシスという機能は、仮想空間とも協調することが出来ます。

 

【すごいリーダーに求められる発想の転換

◆人の世界はどうとでも変えられる

☞臨場感は1つの世界しか持つことができず臨場感はいたるところで生まれ、消えることが起こる。臨場感を持つかどうかは自分次第ですので臨場感をもつ世界次第でその人の世界はどうとでもなる。

 

【人の心を掴むには】

◆自然と他人を引き寄せる人物になる

コントロールできる臨場感空間に、人々を引き寄せさえすればリーダーとなります

どのような規模、人数リーダーになるかは、選ぶ人の自由です。規模感が異なっても、その臨場感をコントロールすればリーダーになれます。

 

◆大切なのは感情を共有すること

あらかじめ自分が臨場感をもつ世界に人々を共有させればいいのですが、ポイントは、1つの臨場感空間を2人以上が共有すると、共有している人たちの間で特別な感情が生まれる「ラボール」が発生します。リーダーはになる際には、このラボールを生み出し活用する。

 

◆恐怖は一過性の効果でしかない

補足として「恐怖」などは臨場感空間のコントロールでもっとも単純で、なおかつ下劣なテクニック。危機感の強い場は、臨場感が強くなりますが、臨場感のコントロールではなく、支配でしかない。

 

◆自ら進んで楽しまなければならない

より高度な技術は自分の意識状態を用いた臨場空間のコントロールです。もし自分の中で体験をし楽しんだ臨場感をうまく再現することが出来れば、それをそのまま相手に移行させ、コントロールすることが可能。相手は支持を受け入れやすくなり、相手からリーダーとして見てもらえます。



【一目置かれる存在になれ】

◆相手が圧倒される程の雰囲気とは

いつでもどこでも相手を自分の臨場感空間に引き込むことが出来るようになるにははホメオスタシスの機能をを無意識レベルで活用することで可能となる。プラーナ=気は一つの方法です。

 

◆デ・ニーロも学んだ演劇理論で感情を伝達

ハリウッドで用いられている演劇理論「メソッド」がプラーナ=気です。

役者の感情や表現したい世界を観客に完璧に伝えること役者がプラーナを発しながら演技をしています。プラーナは、ゆらぎであり相手を臨場感空間に引きずれ込みます。

 

◆ナンバー1からプラーナをもらう

強いプラナーを発する一つの方法は、強いプラナーナを発する人のそばにいることです。強いプラーナを発する人のそばに行き、身体で感じることが早道

 

【すごいリーダーの責任能力

脳科学的にみる「責任」について

人は、自由であればあるあるほど、その責任は大きくなり自由な立場であるリーダーには責任能力の有無が問われる。責任能力とは「何かあった時に責任をとれるのか」ということです。また、欲望に忠実な自分本位的な感情とは違い、他人のことを思いやったり、宇宙全体を考えたり出来る感情で、社会的情動ともいいます。

 

◆リーダーが責任を取る意味

任とは臨場感空間でコントロールしている人に対して、責任をとるということであるが日本での責任論は的外れが多いのです。自分がコントロールしている空間以外に対する責任はとる必要がない。責任が取れない人はリーダーになってはいけない。大事なことは、責任を取るという行為から逃げないことです。絶対に逃げてはいけません。それが一番重要です。

 

【真のリーダーへの進化】

◆今よりも上のリーダーを目指す

リーダーとは、ゴールをリアルに認識し、それをすべてのメンバーと強く共有できる人

臨場感空間を超えた空間とホメオスタシスのフィードバック関係を持たなくてはならな

い。ゴールが鮮烈であればあるほど、劇的な変化が起こり真のリーダーになれる

人生を楽しんでますか!?

紹介本:仕事なんか生きがいにするな~生きる意味を再び考える~

・本の著者名:泉谷 閑示

・本の出版社名:幻冬舎新書

・発行日:2017年1月

 

紹介

この本は、精神科医の著者が、フロイトアドラーなど先人の言葉を取り混ぜながら

迷いある現代人に向けて自分を見つけ出し、幸せに生きるための灯台となるよう記した書物です。新型うつに代表されるような、過去の医学では解明できない状況が頭の中で

起こっている現代。自分と向き合うことの重要性を説いています。印象的なことは動詞や形容詞に「」カッコとしてコト化している部分です。目に見えないコトを意図的に対象として協調しているように感じました。仕事の意味、生きる意味など深い洞察を得たい人に

お薦めします。



ポイント

1.動力ない受動型は動力の無いトロッコと同じで外的動力に依存する

2.動力には自我を取り戻し自分の居場所を探すことである

3.身体=心でいくると人生を味わえるようになる

4.人生を味わおう



最近は、小・中学生に将来の夢を尋ねても中には「楽になりたい」「楽に暮らせればそれでいい」とい言ったものが多く、自ら何かになりたい問う発言が少ない傾向。

しかし「何が好き」「将来こうなりたい」いう自発的な考えは、自分の領域を理解している自由な意思が理解できたあとにそれらの問いに答えることが出来る。

 

こういった自分の思考の領域がなく我慢の限界に達すると個人差はあるが、その人の「我慢」のタンクが満杯になり怒りっぽくなる、睡眠が取れなくなる等のシグナルを発してきます。新型うつはこのような状態でもあり、現代のマニュアル診断では「古典的うつ病」とはずいぶん違う性質の苦悩と病理が存在している。

 

新うつにの方には、「自我」の目を積まれて育ってきた人が多く見受けられる。

自我が無いと、生きるモチベーションという動力を失って進む状態になり、動力のないトロッコような存在。動力がないので「やる気を出せ」とはっぱを掛けられても動力がないので動けないこともある。新型うつの治療やリワークプログラムは、休職から動力の無い元のトロッコ状態に戻すことを前提にしているので根本解決とは言い難い。

解決方法は

☞解決可能な方法はひとつ。真正面から受け止めて大人なりの「意味」を見出せるところまで諦めずにサポートすることだけ。しかし人は「主体性」を奪われた状態のままで、自力で人生に「意味」を見出すことは原理的に難しいもの。まずは人生の「意味」を求める前に、「意味」を感知できる主体、すなわち「自我」を復活させることから始めないといけない。

と著者は述べている。

 

現代の治療方法についても意味があるかなど役に立つか否かで判断している

昨今、私たちは、役に立つかを性急に求めて、近視眼的に、目に見えてすぐ役立つものに傾倒している。その考えが、心の興味を阻害し、心の空白を生み出すことになる。

心の空白を埋める為に様々な活動を行うことで、消費社会が生み出す「受動的人間」を量産している

現代人は、自分の心の空白を追い払うためにテレビや映画などを詰め込み受動的人間の量産となる。自分自身がちっぽけだという不安を持ち、その不安を忘れようとして消費。

一見「能動」に見えても、空虚=暇を紛らわすために動いているものは、「受動」でしかない。「受動」的に馴染んでしまった私たちは、暇と静かに向き合うことが、いつのまにかすっかり苦手になってしまった。

 

それらの暇は「質」的な不足なのに、量でカバーしていくと、際限なく求めるようになり、「依存症」になる

 

暇を量で満たすと、生きる意味であると錯覚してしまい「自我」芽生えない。

人は、それが「満たされない」か満たされているという状態になった時、初めて自分の生が限りあるものであることと視野に入ってくる。そして、必然的に「なぜ生きるのか」という実在的な問いがでてくる

 

物質的困窮の有無にか変わらず、ハングリー精神を原動力にしてひたむきに社会的に自己実現を目指す生き方は、もはや時代錯誤となっている。ただし一足飛びに「どう働くか」とか「何の仕事をするか」という話になってしまうことが多いが、一歩手前の、「働くとは何か」という根本的な問いを、一度きちんと考えておく必要がある。

 

本質的な質問は、自我が目覚めていない状態で自力で解を見出すことは難しい。まずは「自我」を復活させることから始めなければならない。

働くことに関しても一足飛びに「どう働くか」とか「なんの仕事をするか」という話しになってしまう前に「働くとは何か」という根本的な問いを、一度きちんと考える必要がある。

 

ここで働く意味ですが「労働」というものは、を軽蔑すべきものとして、なるべく避けようとする傾向と、逆に「労働」によって生命の喜びが得られる傾向とがあり、両者をあわせもつややこしいところがある。

 

本来は手ごたえを得られるはずの「仕事」というものが、いつの間にやら「労働」と混同され「労働」こそが価値を生むものであるという「労働価値説」が社会経済の根本的価値観となってしまったと言います。

 

しかし「労働」から完全に離れることは、人間から活力を奪い去ってしまうことになることは生き物としての一つの真実です。しかし「労働」によってほとんどの人が苦しめられるような生活も決して人間的な生活とは呼べない。

 

人間らしい「世界」を取り戻すには、儲かるとか役に立つとか言った資本主義的な考え方から目を覚まし、人間として「意味」が感じられるような生き方を模索する狭き道こそが、これからの私たちに求められている課題であり、希望なのです。

しかし現実の状況は

「自分探し」なんて時間の無駄である、「本当の自分」なんてどこにもありはしない、そんなことを考えている暇があったら何でもいいから働け、と言った乱暴な議論があちらこちらでなされており、ただでさえ自信が持てなくなっている彼らは、これによって、さらに自己否定を強めてしまっているという困った実情があります。

と言います。

 

「心」を中心にこれらを自我を回復させることで、「本当の自分」になったという内的感覚を抱き生まれ直したかのような新鮮さと喜びに満ちた「第二の誕生」を迎える。

「本当の自分」になる経験が起こると、必ずや一定期間の後に「自分」への執着が消えるという新たな段階に入っていきます

新境地に入っていくそうです。

 

一般敵に適応的な成人は人間として完成されているわけではなく、真の内的成熟という視点から見るとひよっこも同然という段階である。



現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、「有意義病」。

常に「価値」を生むことを求めてきたため、「有意義」という呪縛の中でもがき続けていて、大切な「意味」を感じるような生き方を考えたり感じたりする余裕すらない。

「意味」は与えらえるのではなく、自分の内面の働きから初めて生み出されてくる

 

「生きること」が「人生」と名付け、そこに「意味を問う」というベクトルを向けると、自分の人生の主人公になり、この一連の思考が、「意味への意思」の本質。

 

人が生きる「意味」を感じるのは「価値」あることを達成するのではなく、「心=身体」が様々なことを味わい、喜ぶことによって実現される。

 

「本当の自分」というものは、どこか外に待ち受けてくれているものではなく、自分の内面を、「心=身体」を中心にした生き物歳て自然な在り方に戻すことによって達成する。

 

「自分探し」、「仕事探し」の問題は2つあって、「真の自己」を外に求めてしまっていること、「職業」という狭い範疇のものに求めてしまっているところにある。

 

一人一人の「心=身体」から湧き起こる知恵が、有能なマネージャーとして「頭」の理性を協働させ、社会に向かって動き出したとき、必ずや既存の方におさまらない、その人らしい歩みが導き出されるはずです。

 

「自発性」があると、人は「絆」等というものに頼らなくても、外界と結びつくことができる。依存と支配ではなく、独立性が尊重され「愛」と呼ばれるものになる。



しかし自ら熱や光を生み出すことが出来ないのでエネルギーを貰うために、「絆」にしがみついたり群れたがったりする心理を生んでしまいます。そして「自分が自分らしく在る」という「自由」を放棄してまでも何等かに服従してしまう。「愛」という自家発電が行われないとき、人はこのように依存的状態に陥りやすくなる。

 

愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持である。欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持である



生きる意味を感じるには、何でもないように見える「日常」が重要な鍵を握っている

 

あえて無計画、無目的に、自分の行動を「即興」にゆだねてみることによって私たちの決まりきった日常がささやかながらも、エキサイティングな発見と相違工夫に満ち足りた物に変貌するわけです。これを私は「偶然に身を開く」と読んでいます。また「面倒くさい」と感じることをむしろ積極的に歓迎してみるという考え方があります。

 

私たちは「何者かになる」不要で、何かと戯れることが「遊び」の真髄

 

☞「心」の向くまま気の向くまま気軽にやってみる。気が向かなければやらない。「継続」など堅苦しく考えたりせず、ただ壮大な人生の暇つぶしとして遊ぶのです。

 

☞禁欲的に労働して未来に備えることを過度に賛美し、その反作用として「今を生きる」「生きることを楽しむ」ことを良からぬこととして捉えるような、倒錯した価値観は意味がない。貴重な「人間らしい正」を犠牲にしてはならない